山中ブログ
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連休はいかがお過ごしでしたですか。私は同級生の死という、悲しい出来事にあってしまいました。一週間前に彼を含めた昔の仲間と、彼の家へ見舞いに行き、語りあったところだっただけに、本当に残念です。3年半前に医者には半年しかもたないと云われていたが、いままでもった、と彼は笑って云っていた。腸ガンが肺と肝臓に転移していたようです。かなり苦しかったはずですが、冗談を言い合っている我々の前ではおくびにも出さず、絶えず微笑んでいました。今思えばすごい精神力だったとおもいます。
彼とは河合小学校のときから、河合中学、小野高校、関西大学とずっと一緒にある意味ライバルとして、競いあってきました。小中学校のときは彼といつも一緒に走らされて、大差をつけられていました。走りだけではなく、全ての協議で背の大きかった私が、背の小さかった彼の後塵を拝してました。高校、大学ではよく麻雀をしました。昔の彼との思い出が走馬灯のように思い出されると、よく聴きますが、弔辞を読んでいて本当に実感が湧きました。
卒業後、大阪に就職していた私は、父がなくなったのをきっかけに、小野に帰ってきて就職したのですが、彼も遠くに就職していたのが、2~3年で小野へ帰ってくるという、私と似た境遇でした。
彼は小野商工会議所で専務理事をしていました。彼がいてくれることは、当たり前のこととして、感じていました。亡くなってしまえばあっけないものです。心の中に大きな穴があいてしまったような気がしています。息子夫婦に孫もいるので、その点では安心して旅だったと思います。なんともやるせない連休でした。
彼とは河合小学校のときから、河合中学、小野高校、関西大学とずっと一緒にある意味ライバルとして、競いあってきました。小中学校のときは彼といつも一緒に走らされて、大差をつけられていました。走りだけではなく、全ての協議で背の大きかった私が、背の小さかった彼の後塵を拝してました。高校、大学ではよく麻雀をしました。昔の彼との思い出が走馬灯のように思い出されると、よく聴きますが、弔辞を読んでいて本当に実感が湧きました。
卒業後、大阪に就職していた私は、父がなくなったのをきっかけに、小野に帰ってきて就職したのですが、彼も遠くに就職していたのが、2~3年で小野へ帰ってくるという、私と似た境遇でした。
彼は小野商工会議所で専務理事をしていました。彼がいてくれることは、当たり前のこととして、感じていました。亡くなってしまえばあっけないものです。心の中に大きな穴があいてしまったような気がしています。息子夫婦に孫もいるので、その点では安心して旅だったと思います。なんともやるせない連休でした。
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